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思えば常に何かに追われる一年でありました。

自分の無力を味わうこと多数、有力を味わうこと皆無、
経た年月が両手の指で足りなくなってからもう何年過ぎたのかも数えることはできません。
記憶の欠落も多々見られる日々、己が身を追い立てる者の何たるかも忘失したこの頃。
取り立てて何かをした記憶もないのですが、振り返れば目の届く内に、自分の所業を振り返っておく事は、
そう悪いことではないのでしょう。
昨年のこの時期に書いた記事と同様、アイマス関係の何やらについて、
この停滞と懐古を旨とするエントリにまとめて並べおくことと致しましょう。
以下、有体に言えば、今期私が作ったアイマス関連創作物の、本当にただの備忘録なので、
特に興味のない人は気にしないでいいです。
何より恐ろしいことには、この記事にはオチすらもないのです。

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この2日間に見た中で本当に好きだった動画の話をするエントリ。

このブログの「ニコマス動画」カテゴリは主に、自分がすっごい好きだった動画を記録に残し、
折に触れて見返すための記事を掲載する所です。
それで、どうしても記事にしたいなって動画があったのですけれど、
ちょっと色々書いた上で読み返して判断するに、
どうも今の私はあまり文章を書くべきではなかったようなので、
いくつか書いてみた枕を全て没にし、全然関係ない画像を貼ることに致します。

morphtest
はい。

どうも今の私はあまり文章を書くべきではなかったようなのですが、
ちょっと本当にふわーってなるくらい素敵な動画がたくさんあったので、感想文に代えて、
見ていて連想した、好きな寿司ネタを書いてゆきましょう。
以下。


たまご。


あなご。


甘えび。


うどん。


よく考えたら、生のお魚や生肉って私、よっぽど新鮮なのじゃないとだめなんですよね。

卵が先か、割下が先か

※ネタバレを避けよう避けようと書いていた所、
 読み返してみたら自分でも何が言いたいのかよくわからなかったので、
 何が言いたいのかよくわからない文章が苦手な人は読まない方がいいです。



本を読むときには、2、3冊の本を平行して読み進めるのが良いのです。
違う本を読んでいても、同じ事物や、似た状況、近い感情が出てくることは多いです。
そのとき、それぞれの筆者がそれをどう扱うか。

あからさまに明言する場合もあれば、おおっぴらにせず匂わすこともある。
それらを同時に読めば、隠された意図を読み取りやすくなる。
好意的に著す場合もあれば、糾弾、ないし愚弄することもある。
それらを同時に読めば、同じ物を多面的に読むことができる。
まるで関係なく見える二つの出来事の、地下に通ずる共通点、人間の根っこも見出せるかもしれない。
小説を読む際に、評論、ノンフィクション、専門書など辺りを平行で読むのも良いですね。

といって、十も二十も平行で読み進めると、共通点も漠としたものとなるので、あんまり恩恵はないのかもしれません。


ひゅんPの『チューブド・ハムスター・ライフサイクル』という動画があって、そこでは、ハムスターが死ぬのです。
死は飼い主に悲しみを与えますが、死を悲しむためには、人は相応の手順を踏まなければならない。
安易に「悲しむ」という行為は、悲しむべき出来事を陳腐化するように思われてしまうのです。
もちろん、そんなはずはないのです。「だって人が死ぬんだよ?」は真理なのですから。
それでも、悲しむことは難しい。人は自分が悲しむべき時であるほど、簡単に悲しむことはできない。
正しく悲しむための方法は、それが提示された時点で薄っぺらなものになるし、自分で考えるにしたって、「自分は悲しむための方法を考えている」と気付いた時点で、それまでの思考の全てが、マヤカシであるように思えてくる。自分の感情も作り事のように思えてくる。
飼い主である所の我那覇響は考えに考えた挙句、偶然的に悲しむ方法を見つけ、ようやく涙を流すことに成功するのですね。

ハムスターは、
「死ぬと驚くほど軽くなる」のか、
「死ぬと驚くほど軽いことに気付いてしまう」のか、
「驚くほど軽くなったから死ぬ」のか、
どれなのだろう、と疑問を呟いた私は、
「軽くなったことに驚いて死ぬ」という、
貴重で興味深いご意見を頂くことができました。
因果の糸は入り乱れ、始まりと終わりを繋いで、円環を辿る。
死、それ自体すら、また同じ所を回り続ける無益なスポーツを思わせるのがハムスターという生き物なのかもしれません。
響はいつかまた新しいハムスターを飼い始めるのでしょう。


どきゆりPの『シンデレラ幻想奇譚 その191 うづパカと智絵里』という動画でも、因果の逆転現象が描かれていたのでした。

「鶏の卵」とは「鶏の生んだ卵」を指すのか、「鶏が生まれる卵」を指すのか。
この見解の相違が解決されないまま放置されているが故に、此処に一つの水掛論が生まれる訳です。
前者であれば論を待たずに当然鶏が先でしょうし、後者であれば卵が先と決まる道理なのですね。
さて、ここに「カエルのタマゴ」という言葉があります。
カエルのタマゴから生まれる物はオタマジャクシなのですが、 これは産んだ親を基準としてカエルのタマゴと呼ばれている事になります。
要するにタマゴの種類を示すには、生まれてくる中身ではなく、産んだ親の名が冠されるのです。

例えばの話、鶏が生んだ卵から家鴨の雛が孵ったとしましょう。
見た者は、その奇怪な状況を評して何と言うでしょうね。
「鶏の卵から家鴨が生まれた」、ではないでしょうか。
間違っても「鶏が家鴨の卵を産んだ」などとは評しますまい。
卵が先か、鶏が先か、つまり、その答えは鶏なのであります。

この物語においては、鶏や蛙の卵の話よりも、イクラの話をするのが適切なのかもしれません。
うづパカは、鮭の如くにして、卵を産んだのですし。


因果の逆転、輪廻で言えば、象犬pの『全世界オキナワ化計画!』なのですね。
オキナワとは何だったのかという疑問は、最終話3:40からの流れで解消されます。
オキナワとは何だったのか。オキナワとは何物でもなく、オキナワとは万象を差す。
何をもって始まりとするかではなく、いつをもって始まりとするか
始まりと経過が繋がり、終わりのない場面に於いて、本当に重要なことは流転します。
それは根幹という概念の否定ではなくて、根幹は必ずしも揺るがないものではないということ。
平和を得るための戦争は、その終結を以て平和へと帰結する。
出会いは別れの始まりとも言いますし、勿論平和もまた争いの始まりなのですけれど、人は常に、その時々に重要だと信じる物のために、一見無益に思えるマラソン、ないしサイクリングを続けるものなのです。
手段と目的は入れ替わり立ち代りますが、新陳代謝を繰り返して最初の細胞が全て排泄されてしまったとしたって、存在そのものは変わらない。


以上を踏まえて、第1回くぎゅパンチ選手権動画を見返すとですね。
何だか、人への、またその営みへの、たまらない愛おしさに、ほんのり涙が滲むのですよ。
プロフィール

藤田るいふ

Author:藤田るいふ
ニコマスとかアイマスの話を思う存分書き綴る用のサブブログ。 たぶん期間限定なんですけど、期間自体は未定。本家

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